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1989-1997 上り詰めた頂点の舞台

最高峰の舞台で活躍

オートバックスのロゴは、思いがけない形でサーキットへ戻ってきた。89年10月末に鈴鹿サーキットで開催されたF1世界選手権第15戦日本グランプリ。F1ティレル・チームが走らせるティレル018・フォードのボディにオートバックスのロゴが描き込まれ、世界中のレースファンの目に触れる晴れ舞台に立ったのである。世はF1ブームのまっただ中にあり、F1ブームをとおしてモータースポーツは広く一般社会に認知されるに至った。そこにモータースポーツに対するサポート活動の新たな意味が生じていた。

また「四輪レースの頂点はF1グランプリ。レースのスポンサーをやるならばいつかはF1にも関わりたい」という思いは、オートバックスがモータースポーツと関わり始めた当初から抱いていた願いであった。その願いはここに実現した。カーマン・アパッチから数えて20年、オートバックス・ブランドで本格的なレース活動を開始してから8年目のことである。その後、オートバックスはブラバム・ヤマハF1の年間サポートに踏み切り、注目を浴びる。オートバックスのロゴがブラバムBT59YおよびBT60Y・ヤマハのノーズ上とリアウイングに描き込まれ、1シーズンにわたって各国のサーキットを駆け回った。マシンにはトラブルが相次ぎ、思いどおりの戦果はなかなか得られなかったが、モータースポーツの頂点であるF1に関わるという当初の願いは実現した。

しかし、それで満足するわけにはいかなかった。企業としてモータースポーツに関わる以上、何らかの利益を生まなければ、それはただの消費にしかならない。モータースポーツ新時代の中、オートバックスは、モータースポーツとの関わり方を再び見直している。F1は確かに世間の注目は集めるかもしれないし、オートバックスの知名度も上がるかもしれないが、ただ単に資金を提供してボディの一部にオートバックスのロゴを描くだけの活動にどれだけの意味があるのか。せっかくレースに関わるのならば単なるスポンサーとしてではなく、共にひとつ事業を展開し、その過程でレースの底辺を拡大し、店舗を訪れてくれる顧客を開拓していくべきではないのか。そのためには、新しい関わり方を考え出さなければならない。オートバックスは再びレースに対するサポートを縮小し、可能性を探り始めた。その新たな支援の形は、鈴木亜久里との出会いから生まれることとなる。

新たなる挑戦へ

オートバックスは、97年、オートバックス・レーシング・チーム(ART)と名付けた新しいレース活動を開始した。日本各地で開催されているマイナーカテゴリー、その名の通り若い選手が腕を磨くフレッシュマンレースや初心者向けのワンメイクレースなどに参加するアマチュア選手を支援し、モータースポーツの裾野を広げようという活動である。

ARTはサポートを希望する選手を公募し、審査をした上で1シーズンにわたる支援を行った。初年度は、幅広いカテゴリーに渡り22人ものドライバーを支援。対象となったカテゴリーの多くは一般乗用車の改造クラスであり、F1とは対極にあるモータースポーツの底辺を支えるクラスであるとともに、オートバックスの顧客にとって最も身近なクラスでもあった。中にはオートバックスの店舗に勤務する選手も含まれていた。

だが身近なカテゴリーである分、一般的な露出は少なく、知名度をより上げるためには活動を象徴するひとつの核が必要だった。そのとき、鈴木亜久里が現れる。

レーシングカートからモータースポーツの世界に足を踏み入れ、F1で日本人初の3位入賞を果たして日本のモータースポーツの頂点をきわめた彼は、現役を退いた後は新たな才能を発掘、育成し、日本のモータースポーツをより拡大、充実させる活動を展開しようと考えていた。その趣旨がオートバックスが望む新しい時代の支援活動の核として、その方針と合致した。

そして97年10月、ARTA(オートバックス・レーシング・チーム・アグリ)が発足。ARTAは翌98年から、レーシングカート、F3、GT、フォーミュラ・ニッポンと国内レースの軸になるカテゴリーに参加すると同時に、発掘した才能を順次上位カテゴリーへ起用し、経験を積ませて育てる体制を作り上げた。また、ARTは98年よりARTA F.O.S.部門となった。